フランスの奴

文: Guy Andrews | Date:

今シーズンの終わりで、RaphaはRapha-Condor-JLTの実り多い9年にも渡る共同オーナーを、寂しいながらも終えることとなりました。チームがイギリス国内レースの原動力となっていくのを見てきた一つの時代の終わりを飾るものとして、またRapha-Condor-JLTシリーズの最後の限定商品の発売に伴い、チームの初代メンバーのガイ・アンドリュースがチームの基盤となっている強さの鍵を捧げます。

“昨夜は誰が勝ったんだい?”

“フランスの奴さ”

“また?”

“そうさ、またさ”

彼は名前で呼ばれることはなく、いつも“フランスの奴”と言われていた。なぜなら、バイクレーサー達は、ノッポ、アメリカの奴、アイリッシュ男といった具合に、物事をシンプルにすることが好きだから。チームメイトとレース結果について話をする時、いちいち名前を言うのは長ったらしすぎるから、簡単に通じる方が良い。

The French Bloke

元プロとした最近の会話も、これを裏付けている。プロライダー達は毎週同じメンツでレースをしているにも関わらず、うなずいたり、ぼそぼそ、ぶつぶつ言う程度の挨拶を交わすだけで、今読んでる本について話すことはまずない。つまり、レースはレース。そこで友達をつくる訳ではないということ。僕が10年以上も一緒にレースをしてきた中で、“ハロー”と、挨拶さえしないライダー達も存在する。それがその時代の象徴なのかもしれない。レーサー達は様々なバックグラウンドとチームを持っている。つまりは、共通点は2つの車輪に股がり、勝とうとしている。ということだけだ。バイクレーサー達は会話はしないが、レース中に無礼に叫んだり挑発する様なジェスチャーはする。

ゴールの後は大体いつも静かなものだ。“ロードで起こったことは、ロードに置いてくる”という姿勢をほとんどの人がとっているからだ。確かにこれは少し奇妙なことではあるが、ペースラインの段取り、同じレベルでの努力を励まし、ポジションの入れ替えや、風向きの判断、エシュロンの組み方など、成功するバイクレースとは実のところ、コミュニケーションが全てとも言える。

話がそれた。元に戻そう。東ロンドンのエースウェイや、西側のヒリングトンでのこの時代初頭のレースはフランスの奴との戦いを意味していた。

ガリア(フランス)人特有の無頓着さと控えめな肩をすくめる仕草を持った現代バッジャーの彼は、ただビジネスをしていただけだった。彼は “怖い” という評判を集めていた。早期にジュニアのキャリアを持ちながらもレースに出場する様になったのは遅く、他のレーサー達からは“元プロ”や、“元フランスチャンピオン”としばらく言われ続け、これら全てが彼の驚異に加算されてはいるのだが、それは彼がいつも歓迎されているわけではないことも意味していた。彼が競争的な争いの中で侮辱されていたことは明らかで、バカにされ、陰謀を企まれ、しかし彼は絶対に屈することなく、それら全てが彼を強くしていた。

彼は出場し、また勝利を収めていた。

このフランスの奴を含む6人の牽引するブレークにいても、かなりの距離を飛び抜けられない限り、あなたにチャンスはない。ブレークの中の3人が同じチームでさえ、彼がバイク一台分の差のスプリントで、半分の年齢の倍もパワーを持った奴らに勝利する。

とあるそんな戦いの後、そのフランスの奴と私は話をした。彼は申し分のない英語を話し、かたや私は学校でかじっただけのフランス語。彼は陽気で、面白く、無邪気で、少し変わっていた。彼の強さへの嫉妬とライバルという事実に彼を嫌いたくなるところだったが、彼の魅力が上回り、私達は友達になった。

そのフランスの奴の名前は、ドミニク・ガベリーニという。彼は明確なフェアプレイの精神を持ち、一番気難しいライダーにさえ勝っていた。彼は 野蛮な奴とは一線を画していた。理解しがたいが、エスケープした奴に勝利を譲ることさえあった。正直者がいつも貧乏くじを引く訳ではないことを証明していた。 もちろん彼は時々意味不明なことを言ったりもしたが、少なくとも彼のルートの見つけ方は“クリエイティブ”で、彼はとても魅力的な男だった。

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彼はかなり熱狂的で、活力に溢れていて、サイモン・モットラム(Rapha創設者)とグラント・ヤング(Condor Cycles責任者)がチームを作るべきだと決めた。“彼が決めた”というのは完全に正しいとはいえないが、彼の決断力はこうしてレーストラック上以外でも発揮された。彼を尊敬せずにはいられない理由は、彼は2つの会社の一番のファンであり、使者であるだけでなく、彼らなら斬新なやり方でできるとわかっていたからだ。彼はチームとして正しいライドを望んでいて、ジュリアン・ブレイや、マット・シートンや自分自身も含めて、何人もの似た様な考え方のロンドン人に、一緒にライドしないか?と声をかけた。

Rapha-Condorの最初のシーズンとなったその春、ドミニクは最低週2回、勝利を収めた。私達は彼を先導し、ブレークを追いかけ、いつも彼の為に壁を突き抜けた。それは金の為ではなく(金はみんなで分け合っていた)、ただそうすることが好きだったからだが、ほんの最初の数ヶ月だけで、それ以前のあまり上手く行ってなかったおかしな20年間で得た以上の賞金を急激に獲得するようになっていた。

この新しいチームには大きな計画があった。ドミニクは、私達はこれを続けて行くべきだと主張し、このグループの有能な経験者達は、紛れもなく彼の勝利できる能力に刺激を受けていた。しかしながら私達は小さい池で成果をあげていたが、Rapha-Condorが泳ごうとしていたより大きな湖は、まだ太刀打ちできない程の大きさだった。そして計画を達成するべく、ベン・ポシェや、ブレット・ペレーズ、リチャード・ウィルキンソンの様な、才能があり器もあるライダー達を引き入れ、やがてはディーン・ダウニングともサインしたチームの方向性に、私達古株は脱退を考え始めていた。

ドミニクのポジションは徐々にチームキャプテンやDSの方にシフトして行ったが、ロンドン・クリテリウム・サーキットでは若者達を打ちのめす為にレースに戻ったりもした。それは彼の熱意だったのだが、それがエリート達に良い化学反応を起こさせていた。

レース引退後、私はまるでホームレスの様に感じていたが(本当に家がなかった訳ではなく、関係性の解消で感じた孤独感)、ドミニクは私に、彼のところに“いなさい”。と言った(彼はそういう言い方をした)。とても彼らしいのだが、彼は必要な時はいつも必ず友人や家族を全力で一番大切にしていた。彼はチームキャプテンとしても太っ腹なホストだったが、彼の暖かさと友情は単なる彼の天性のものというわけでもなかった。

そのフランスの奴は真の紳士であった。

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