Tohoku

文章: Daisuke Yano | 写真: Kazuhiro Watanabe | 日付:

Film: Daisuke Kitayama

石巻

2011年の3月、Raphaでは日本から発案したチャリティライドは、日本どころか世界中22ヶ所にて有機的にRaphaを囲む友人達の協力を得人々の寄付を募りました。参加した全員が、東北を思い走りました。この場を借り、繰り返しになりますが我々の考えに共感していただき本当にありがとうございました。あれから一年以上が経ち、いまなお一般的な旅行としての訪問は教育目的以外には考えづらいが、私達サイクリストにとっては話は別。サイクリストは最高の道路、時には悪路、さえあれば十分満足できる旅ができる単純な人間であり、ここ東北にはすでに最高の道路が待っています。

毎回Rapha Continentalライドは深夜に到着するがために、翌朝にペダルを漕ぎ出す瞬間は必然的に刺激に満ちたものになる。明るくなってから初めて見える道、建物、そして地元の人たち。今回も深夜に到着したのは変わらないが、正直なところ夜が明けた時に待っている光景に対してどんな反応をすればよいのかという不安は常に傍らにあった。そこに暮らす人々と出会って、どんな言葉を交わせば良いのだろうか?石巻市街を離れ海岸線沿いの荒れたルートを北上する我々のペースは、決していつもの速さではなかった。眼前の、テレビスクリーンの中でしか見たことのない光景を消化するのにそれぞれが沈思のうちにペダルを漕いでいて、感想を述べること自体にも「悪いんじゃないかな」と思ってしまい足が進まなかった。それは、理解不能な光景でライダーそれぞれが口をあんぐりと開けて走ったのは、追い込んでいたからではなく津波の爪痕のあまりに生々しい姿に呆然自失になっていたからである。新たな場に訪れた時は会話が多い私達でも、この日は会話が無かった。

ダートは最高なものだった———。日本では最高な砂利道を見つけるのがとのかく大変。スムースであり、ほどよいカーブと「適度な」荒れ具合が要求され、できれば斜度は軽めがベスト。地図と長い時間にらめっこし、インターネットを使ってツーリング野郎のブログや写真を検索しては冒険好きな人たちの記録からまた地図にフィードバックしてこうした道を常に探している。でも今回我々が走った道は地図には載っていない。点在する港湾へと下る度に、一帯がラフなターマックからスムースな砂利道に変わる。2011年3月11日の津波が道路も含めた沿岸のあらゆる物を洗い流してしまった後で、一時的に整備されたのがこうした砂利道だった。この絶対的な破壊力は人に不思議な感性を刺激していた。幾人もの難を逃れたこの地に暮らす人が語ってくれた:

「皮肉なものです。あの翌朝、今まで生きてきた中で最も美しい光景がそこに広がっていた。この街で50年も暮らしているのにね。」

立派な歴史を持っている街や集落は人里離れても美しい街並を保っているが、この多くの場合はお世辞にもきれいな街並だとは言えない所が多い。

海岸線から内陸へと登り始めると、たちまちに騒々しい森の中に吸い込まれていく。曲がりくねり細かく上下する道路は新緑に包まれ、数百メートルおきにコーナーが連続するせいでジェットコースターに乗っているかのような感覚に見舞われる。ここでは陸地と海とが天然の迷宮のように絡み合い混ざり合い、海を見下ろしているはずなのに連続する島々(それが細かい半島なのか島かもわからず)が山脈を見下ろしている気分にさせる。たったカリフォルニア州程度の面積でありながら世界で6番目に長い海岸線を持つ国である理由がまさしくここにある。コーナーとアップ・ダウンが細かく連続する牡鹿半島では完璧なディレーラー調整は必須。

サイクルコンピューターの距離表示は、このエリアが地図上では狭く表されているにも関わらずどんどんと数が積み重なっていく。今日の200km程度のルートにおける唯一の山岳はそれほど高くもないが、曲線で距離が稼がれているのと全く同様に細かいアップ・ダウンで登坂距離もじわじわと増えて知らぬ間に足の疲労が蓄積している…。これらの要素が、このエリアをタフなライドの舞台としているが、ここの人達が通ってきた辛さを考えると「疲れた」「苦しい」という言葉を吐くような状況ではなかった。足を止めればペインも止まるわけだから。

仮設だが数少ない営業中の食事処を見つけ、迷うこと無く立ち寄った。思い出してみると出発した石巻市街のコンビニエンス・ストアを除けば、食事をとれるところはルート上に数カ所しかなかった。網の上で牛タンがいい香りを立てる小屋の外には、ここを訪れた人々の激励のメッセージが連なったウッドパネルが鎮座している。津波を生き延びたここの主人は、直ちに食堂を立て直して地域の味である牛タンとフカヒレスープを提供している。

「悲しみにうなだれて、無気力に泣く暇なんてなかったです。理解不能な悲しみだったけど、訪ねてくる旅行者や作業される人と話をすることが正常でいられる唯一の薬だと分かってきて、考えすぎないようになりました。」

私達と似た様な道を求めて走るモーターサイクリストは少なくないが、サイクリストは我々が初めてとのこと。しかし再び多くのサイクリストがここを訪れる日が、そう遠くないことを強く願う。

よく見るとこの地には確かにエネルギーが満ちていて、水平線に目をやれば漁師のボートがこちらへと戻ってくるのが見えるし、おばあちゃんは陸でホタテの貝殻に穴を開けては一房に束ねている。この人々はみな全く当て所の無い辛い思いを持ちながらも一歩どころか半歩づつでもバラバラになった生活のピースをはめ直してきている。私達は仕事や一般の生活の中で「我慢」とか「忍耐」という言葉をあまりにも軽く使っていることを思い知らされる。サイクリストが集団を牽引するハードさや、終わりが見えないかのような登りに挑む時の苦しさを雄弁に語っても、この地に生きる人々からしたら一笑もの。荒廃からの毎日を克服した彼らの精神的強靭さこそが、人間の本当の強さを雄弁に物語る。

計画時は多少躊躇したものの里山の田園地帯を抜けて夕日に輝く石巻へと戻ってきた時には、もう瓦礫の中を走ることの後ろめたさよりもこの地を走れ、数人だが地元の人達と語れたことの喜びが勝っていた。もし機会があれば貴方もTohokuを走るべきです。

九代目法華三郎信房

我々の走った石巻からそう遠くない大崎の街に木造の小屋が建っている。「地震がきた時は絶対に崩れると思いましたけど、揺れた方向のおかげか全然大丈夫だったんですよ」と語るのは法華大喜氏。1000年に渡って刀匠の伝統を受け継いできた九代目法華三郎信房氏から、1993年に十代目として法華を襲名した紛うことなき刀匠である。

ただでさえ「職人」気質でアプローチしにくいところを神秘的なイメージを持つ刀匠ときて、さらにはまんまサイクリングの格好で自転車に乗って訪れた私達がどう受け取られるのか不安ばかりであった。長い沈黙や理解度の低さにイラだちを見せるのか……実際に9代目法華三郎信房氏に会うと心配事はすぐなくなるどころか話の量のあまりにこちらが消化しきれないペースでいろんなエピソードを語ってくれる。奥様のおもてなしはすべて手づくりの和洋中のデザートで大きなテーブルを隙間無く埋め尽くされる程だった。もてなしていただき、仕事場をサイクリストの出で立ちで訪れると、すぐに我々のバイクに込められたクラフツマンシップに共感の眼差しを寄せた。口数の少ない職人をイメージしていただけに、意外な気さくさだった。実際、我々は遠方からのゲストとして暖かく迎え入れられた。日本刀にまつわる物語を語り出すと止まらない法華栄喜氏の話を興味深く聞く。

「日本刀は切れるよ。切れるから抜かねぇんだ。守ってくれるだろ。それがわかってるから。だから完璧な作りでないといけないのよ。戦いの前線で使われる武器は弓矢や槍、渡来してからは銃だな。日本刀の価格は昔も家が一軒買えるぐらいだよ。当時の侍なんて今で言う公務員だからさ、普段は書類作りばかりで大した金もらってないだろ。だから買う時には、ローンでみんな買ってたんだよ。」

Rapha Continentalのフレームビルダーを訪ねた時に感じた雰囲気や匂いと似たものがここにもある。火でもって鉄を形にしていくのだから、それも当然か。シンプルな乗り物である自転車のフレームと同じように、日本刀もまたこれ以上ないシンプルな武器。そのシンプルさに絶対的な美しさが宿っている。しかし日本刀の磨き上げられた仕上がりは、数えきれない時間を要する忍耐強い仕事、繰り返しの鎚打ちの賜物だ。炭素を含まないやわらかい核を硬い炭素入りの鉄で挟み込み、個々の材料に適した温度に炎で持っていき鎚が重ねられる。

「日本刀に使う鉄は指定スペックで工場から届くわけでもないから、届く地域に寄って色や最適温度が変わってくるんです。それを炎の様子とかで適温かどうかを判断しなければならないんですよ。この鉄はもしかしたら1000℃くらいかもしれないし。もしこれを50度見誤ったら、もう日本刀にはならないよ。」

間近で日本刀の表面を見てみると模様が見える。それは幾重にも重なった鉄の層なのだが、これは日本各地から産出する鉄がそれぞれに違う色をしていることに由来している。ファッション的なセンスで真っすぐな柾目や湾曲する木目などの模様を出していく。 「何回ここに鉄を織り込んだかって?実際は何十とかだけど、固まりの時から考えると二乗で増えて行くから何万の層がここにあるよ。」

刀匠の技術には多大な体力と、同時に仕事に生涯を賭すことが要求される。九代目法華三郎信房の造る刀の特徴は大和伝と言い決められた形などがある。刀の反り。最後に水に浸けて出すのだが、正しい反りを出すのにはある種の運、おそらく神に見初められた運が必要で、今迄の鎚の一振り一振りが反りの程度と精度を決める。この工程は逆戻しができず、もし鉄が思う様に曲がらなかったりでもしたらそれはただの鉄の棒となる。その為に、九代目法華三郎信房氏は1本の刀を造り出すのに少なくとも5、6つの刀を同時に作業する。全ては完璧な一振りを生み出すためで、時にその数10を超えてやっと1本納得のいく刀があがることもある。

「日本刀というのは世の中で最も効率の悪い物作りじゃないの。」と九代目法華三郎信房氏は胸を張って言う。

九代目法華三郎信房氏のような刀匠と、自転車のフレームビルダーの絶対的な違いは新しい手法や素材、アイデアを持つことが許されていないこと。大和伝という1000年の伝統を守るというのは「変えない」ということで、これほどまでに見た目がシンプルな芸術が、シンプルであり続ける理由は伝統を「守る」ところかに由来している。それゆえ次代への伝達の過程もまた困難を極めることになる。

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